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【歴史に消えた参謀】吉田茂と辰巳栄一(2)遅すぎた「再軍備が必要」への転換(産経新聞)

 ■直筆書簡「国防問題の現在ニ付深く責任を感し」

 吉田茂元首相と辰巳栄一元中将の大磯会談から数日後の昭和39(1964)年11月19日、吉田から東京・成城の辰巳邸に1通の封書が届いた。それはまぎれもなく、巧みな筆遣いの吉田直筆の書簡である。

 「拝啓、国防問題の現在ニ付深く責任を感し居候次第ハ先日申上候通ニ有之、佐藤首相其他ニも右親敷申通居候得共、過日三木自民党幹事長ニ直話致置候、就てハ御都合宜敷時ニとう仝氏ニも御面談直接御意見御開陳相成度、政党者の啓発に御心懸願上候 十一月十九日」

 文面は「現在の国防問題について、深く責任を感じている。過日会談の内容については、佐藤(栄作)総理、三木(武夫)幹事長によく伝えておいた。君からも両氏と会って委細説明してくれ」という趣旨である。辰巳によると、文中に「先日申上候通ニ有之」とあるのは、大磯で2時間半ほど総理時代のことを話したことをさしている(大嶽秀夫編『戦後日本防衛問題資料集 第一巻』)。

 吉田が「深く責任を感じている」のは、再軍備と憲法改正を政治課題にしなかったことだ。何が吉田の考えを変えたのか。この39年10月は、東京五輪が開かれ、中国が初の核実験を強行していた。

 辰巳はこの吉田書簡について、後に「彼の晩年において国防問題に関する所信の貴重な証拠として今も私の手元に大切に保存しております」(同台経済懇話会『昭和軍事秘話上』)と述べている。

 しかし、辰巳は敗軍の将がこれ以上、政治に関与することを嫌い、首脳たちへの進言を差し控えた。そこには、吉田のブレーンとして責任を果たすことができたとの思いがあった。同時に、言葉には出せないむなしさが入り交じっていたのかもしれない。

 ■詭弁を弄し続けた政治家

 吉田が首相を辞任してから、すでに10年の歳月が流れていた。吉田の後継者たちは、もはや経済発展のほかに再軍備や憲法改正に関心を示してはいなかった。

 吉田が政界を引退した29年に自衛隊法が成立した。陸海空の3自衛隊は、国内向けの治安部隊ではなく、外国からの侵略に対して国土防衛ができるようになった。航空機があり、火砲をそなえ、艦船があった。

 にもかかわらず、政府は議会答弁で「戦力なき軍隊である」と詭弁(きべん)を弄(ろう)した。辰巳は「まるで三百代言のような、ごまかしの論弁をしておりました」と、昭和53年8月の同台経済懇話会の講演で述べている。

 その「戦力なき軍隊」の“呪文(じゅもん)”を最初に使ったのは、実は引退直前の吉田その人ではなかったか(28年11月3日衆院予算委員会)。実際の吉田は、「再軍備はしない」といいながら着実に軍備を強化していた。

 辰巳は吉田を尊敬はしても、この一点だけは納得できなかったのではないか。言い訳とごまかしを続けていると、精神までが腐食するからだ。

 その後の岸信介内閣は、「日米対等化」を目指して安保改定を実現し、結果的に日米基軸を不動のものにした。「60年安保」の混乱の後に登場した池田勇人内閣は、国民のエネルギーを経済に誘導していく。

 続く佐藤栄作内閣も、「政治の自立」よりも「経済の自由」を重視した。吉田路線のネジレを残したままでも発展は可能だと考えていた。

 特に佐藤は米ソ冷戦下に中国が核実験をしたことを受け、日米首脳会談では「日本も持つべきだ」と発言し、米国から「核の傘」の強化を引き出している。昭和43年に、核兵器は「つくらず、持たず、持ち込ませず」の非核三原則を打ち出した。

 これ以降、自民党の保守本流は、自国の防衛努力を怠る正当化の根拠として経済優先・軽武装路線を巧みに取り込んでいく。吉田が辰巳に語ったように、「国力が充実したからには軍備を持つことは必要だ」として、考えを改めたのが遅すぎたのだ。

 ■日本の安保政策を縛った

 京都大学教授だった高坂正堯(こうさか・まさたか)の言葉を借りれば、非武装中立論や憲法改正論の両方からの攻撃に耐え、もっぱら経済問題だけに専念すれば事足りた。高坂はさらに、「吉田茂が大きな業績をなしとげた立派な人間であったことは認めるべきであるけれども、それを『吉田体制』にまでたかめてしまってはならない」と述べ、いわゆる吉田ドクトリンが外交の柔軟性を縛ることになると警告した(『宰相吉田茂』)。

 しかし、日本国民の多くは軽武装で平和を実現するとの「幻想」に寄り添い、同時に米国の抑止力に頼るという「依存」に慣れ切ってしまった。日米同盟を強化するためにも、自助努力が欠かせない。こうした国家のネジレは、今日でさえ、牢固(ろうこ)として日本の安全保障を縛っている。鳩山由紀夫内閣は、その幻想に逃避している。戦後、安全保障を未整備なままにしてきたツケが、「良心を売り歩く」民主党内閣の登場でまたも内向きに沈み込んでしまった。

 幾多の戦後史を彩ってきたあの大磯の吉田邸は、平成21年3月22日早朝、焼失してしまった。檜皮葺(ひわだぶき)の本邸はあっという間に焼け落ち、吉田と辰巳が語り合った書斎も何もかもが、瞬く間に歴史の彼方(かなた)へと消えた。(特別記者 湯浅博)

                   ◇

 「歴史に消えた参謀」は毎週日曜日に掲載します。「昭和正論座」は毎週土曜日のみ掲載し、日曜日の「10年前のきょう」は休みます。

                   ◇

 ■吉田と辰巳の「大磯会談」 啓蒙指導する努力怠ってきた

 辰巳栄一は「大磯会談」の内容を、陸軍出身の経済人からなる同台経済懇話会の昭和62年の講演会で明らかにしている。会談で吉田は要旨次のように語った。

 1、朝鮮戦争が勃発(ぼっぱつ)して、マッカーサー元帥から警察予備隊創設の司令を受けたときは、心から歓迎した。そのころ共産党系の策動が活発で、国内の治安に不安を感じていたからである。(GHQ)G2(情報担当)のウィロビー少将は元軍人を幹部として採用すべきことを主張したが、当時、国民の間に反軍的動向が強いときでもあり、GS(民政局)のホイットニー少将の主張した純然たる治安部隊として、当分元軍人を採用しないことに同調した。

 2、(米の)ダレス特使が平和条約締結の前提条件として、日本の再軍備を強要したとき、やむなく警察予備隊とは別に、将来を考えて、陸海5万の「セキュリティー・フォース」を設立する構想を内示した。しかし本件については、マッカーサー元帥の同意を以て、条約その他で明文化せず、日米間の極秘事項とすることにした。

 3、自衛隊法が成立して、自衛隊は第三国の直接、間接の侵略に対し国土を防衛する任務となったが、そのころすでに日米安保条約が結ばれていたので、ソ連がまさか日本を直接侵略すると考えなかった。むしろ共産圏の企図する間接侵略に対処することが必要であって自衛隊を中核とした国内治安維持を固めることを本旨とした。

 4、日本国防問題で最大の要件は、自分の国は自らの力で守るという国民的情熱の盛り上がりである。然(しか)るに敗戦後の国内政策は、経済の発展、民生の安定を第一義とした。一方占領軍の日本民主化政策が強調されて、国防問題のごときはほとんど等閑視(とうかんし)された。その後歴代の内閣においても憲法を盾にする野党側の攻勢に対し消極的態度をとり、国防問題にふれることをむしろタブー視する傾向を続けてきた。そして国防問題について国民を啓蒙(けいもう)指導する努力を怠ってきた過去を顧みて深く反省する次第である。

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